児玉陽子の正しい「食養」のすすめ

エナジック代理店向け広報誌「Global E-Friends」

2019.11.1~2020.12.15に23回掲載されたものを転載しました。

第6回

わが師日野(ひの)(あつし)医学博士の生涯と食養論――その①

わたしの師である日野厚医学博士は、1919年に京都市で生まれました。父親は同志社大学の宗教学の教授で、 家もキリスト教に帰依し洋風の生活を取り入れていたといいます。 ところが日野は生まれな がらの虚弱体質で、とくに中学生(旧制京 都一中)のころからは悪性で慢性の下痢に悩まされ続けました。

実はこのことが、 日野が「食養」 や 「断食」といった(当時の西洋医学の常識からみれば)“異端の療法”にめざめ、医者としてその研究と実践活動をライフワークにしていくことの端緒になったといえます。 わたしの食養論の原点を形成している「日野式食養法」を理解していただくためにも、ここで当時の状況に触れておきたいと思います。

日野は1989年に亡くなる前、テープレコーダーに自分の来し方を吹き込んでいました。それは後に「我が回想の記」(以下、回想記と略)として遺族の手によって冊子にまとめられました。

それによると、中学4年生時に下痢が猛烈に悪化し、「寝たきりになってしまった。以降、締めて四年半ぐらい休学する事になってしまった」 (回想記)というほどでした。 さらに「約三年間というものは、毎日 三度三度、もう普通の下痢止めでは効かなくなってしまった」(同)。慢性で、かつ悪性の過敏性腸症候群だったようです。こうして日野は、中学を長期病休することになったのでした。

■桜澤式で慢性下痢を克服

日野は療養中にいろいろな治療法を人に勧められましたが、中でも 「玄米食」 には得心し、その関連で (本連載の3回と4回で紹介した) 石塚左玄の食養論を実行するようになりました。 回想記によると、「自分で献立を作って三度三度カロリー計算してオーダーを出していた」というほど、自己流ながら「玄米魚菜食」を相当徹底して実践しました。西洋医学の治療法で回復しなかったことから、そういう療法により力が入ったのでしょう。

日野はその後、石塚左玄の食養理論を受けついだ桜澤如一の提唱する(本連載の4回と5回で説明した)食養論に傾倒します。 わざわざ東京まで出向き、石塚が初代会長を務め、一時期、桜澤も会長だった 「食養会」に通って会員がおこなう療法を学びました。「桜澤先生が講演に行く、座談会に行くというと、僕はことごとく付き歩いた」(回想記)というほど、熱心に取り組みました。

さらに日野は大阪にあった「断食道場」に入寮して断食も体験しています。 そこでは、まるで「禅で悟りを開いた時のような境地」を得たといいます。こうして次第に回復してきた日野は、ようやく中学に復学することができました。

やがて卒業時期を迎え、日野は医師をめざすことにしました。それまでの病気をめぐる彼の強烈な体験が、必然的にその道を選択させたといえるかもしれません。日野は1940年に九州高等医学専門学校 (現久留米大)に入学。44年に卒業すると 医師の道を歩みはじめました。

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