児玉陽子の正しい「食養」のすすめ

エナジック代理店向け広報誌「Global E-Friends」

2019.11.1~2020.12.15に23回掲載されたものを転載しました。

第1回

今月号から「食と健康」について、 連載を始めることになりました児玉陽子です。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、誰にとっても健康こそ最も大切なもの。その大事な健康を創る基本は「正しい食事」です。 しかし多くの人が、相変わらず大量の加工食品に囲まれて、塩分・糖分・脂肪分過多の食生活を送っています。 こうした事態を放置していると、とりわけ中高年にとっては深甚な疾患を招いてしまう怖れがあります。では一体どうしたらよいのでしょう。

わたしは60年近く正しい食生活の普及をめざして、「食養」の指導活動をおこなってきました。この連載では、こうした長年の経験に基づき、主として生活習慣病の予防、およびその軽減をはかるための食生活を、具体的にわかりやすくお伝えする予定です。お読みになった皆さんが、ご自分の食生活を改めて振り返るキッカケになれば、たいへん幸いです。

そもそもわたしが食生活の改善指導に取り組むようになったのは、わたし自身の病気とその快復方法にありました。略歴にも書いてありますが、わたしは19歳で重い皮膚病に、23歳で肺結核を患いました。 この重篤な病気を克服できたのは、当時、東邦大学付属病院で診察をされていました日野厚医学博士の治療を受けたおかげでした。

■日野博士との出会い

日野博士はそれまでの二十数年間にわたり、「食養」という概念に基づく研究と治療に取り組んでいました。それはいつの日か、 「日野式食養」と称されて、食生活と健康を考えるさい、有力な説となっていま した。

その「説」についてはこの連載を通じて追々説明していく予定ですが、まずはごく簡単に 「食事を通じた病気予防と治療の方法」と理解しておいてください。それをひと言で「食養」と表記していたわけです。当時、わたしはその日野式食養によって、命を救われた思いがありました。とりわけ結核は進行性のためかなり重篤で、日野博士から「もう半月も放置していたら危なかった」と言われたほどでした。

東邦大学付属病院に入院したわたしは、日野式食養を指導され実行しました。それは、おおむね次のような食事内容でした。

玄米を主食にし、砂糖は使わず、薄味でタンパク質は魚・豆腐類で摂取し、野菜は (とくに緑黄色野菜を) 毎日食べる。こういう食事をきちんと毎日摂ることで、わたしの身体はすっかり回復し、心身ともに健康になりました。そこで痛感したのは、健康のためであることはもちろん、病気になってからも、いや病気になったなら、なおいっそう 「正しい食事」が大切である、ということでした。

そしてわたしは日野博士が食養に懸ける情熱に感動し、退院後、日野博士のアシスタントとして、その研究と治療のお手伝いをすることになったのでした。

児玉陽子

(食生活アドバイザー)

児玉陽子 略歴:

1936年3月、台湾・台北市生まれ。

55年に皮膚病、

59年に結核を発症。 東邦大学病院の日野厚博士の指導により「日野式食養」を実践し快癒。

以来、食養研究を始め、69年から公益財団法人・河野臨牀医学研究所(東京都品川区)で食後指導を開始。

78年には日野博士と共に日本初の「食養内科」を松井病院(東京都大田区)に設けて食養指導を実施。 95年、同病院顧問に。現在はフリーランスの立場で、食生活についての指導・啓蒙活動をおこなっている。

主著に『臨床栄養と食事改善指導」 「アレルギーにならないための離乳食」(いずれも緑書房)など。

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第2回

「食養」の歴史を辿るーーー貝原(かいはら)益軒(えきけん)横井(よこい)也有(やゆう)

前号では、 日野厚博士の食養指導の甲斐もあって、重篤な病気が改善に向かったため、感心したわたしは食養指導の仕事に取り組むようになった、とお話ししました。 日野博士の長年の研究成果に基づく指導方法がきっかけになったわけですが、ではそもそも食生活のあり方に関する手立てや方策は、いつごろから説かれるようになったのでしょう。

今月号から何回かに分けて、食養をめぐる日本の「学説・理論」 (とその実践) の歴史をたどってみたいと思います。

といって、太古の時代にまでさかのぼるほど紙数に余裕はありません。せいぜい江戸時代あたりからの歴史を対象にしてみます。そういうと、多くの人が思い浮かべるのが、江戸時代前期に活躍した、儒学者であり本草学 (当時の薬学) 者でもあった貝原益軒(1630 ~ 1714) ではありませんか。 とくに、彼が晩年に著した有名な『養生訓』 は、 代表的な 「健康読本」として誰もが知っているでしょう。

これは、いま風にいうと、健康であるための秘訣を、総論・飲食・五官・病気と薬・養老の各領域にわたり説いた書。中でも飲食については扱いが大きく、現在でもたいへん参考になる内容を含んでいます。 たとえばこんなふうです。

●飲食は摂りすぎず腹八分に。

●五味 (甘・辛・しょっぱい・苦み・酸っぱみ) を偏って摂るな。

●「地の食材」を新鮮なうちに摂れ。

■横井が説く「食養」四訓

 これと似たような 「戒め」は江戸中期に横井也有 (1702-1783) という尾張の俳人が書いたとされる「健康十訓」 の中にも四つ出てきます。

少食多噛(しょうしょくたぎょう)(満腹にならずよく噛む)

少塩(しょうえん)多酢(たさく)(塩は控え酢を多く摂る)

少糖多果(しょうとうたか)(糖分を少なくし果物を多く摂る)

少肉(しょうにく)多菜(たさい)(肉類は少なく穀物菜食を)

横井はそのほかに、少煩多眠(気持ちを和ませてよく眠る) とか、 少怒多笑 (怒らずに楽しく生きる)、 少車多歩 (適度に歩く)といった心身の健康のための「訓示」 もしていますが、その中心は食生活の改善にあったといえるでしょう。

益軒や横井のこうした考え方の根底にあるのが、食こそが心身を養い、病気を治す最善の方法で、薬にも勝る効果があるという理念です。

この理念は、食生活の改善などをテーマにするさい、 よく使われる「身土(しんど)不二(ふじ)」や 「医食同源」とほぼ同じ考え方といえます。前者は「人はそれぞれが暮らす土地で採れる季節の食物を常食することで、身体が環境に調和し健康になる」という意味。

後者は、「病気の治療も日常の食事も、共に生命を養い健康を保つために欠かせず、源は同じ」という考え。こうした思考を科学的にとらえ新しい食養を提唱したのが、明治期に活躍した医師・石塚(いしづか)()(げん)でした。 次回はこの石塚を取り上げてみます。

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第3回

「食養」の歴史を辿るーーー“元祖”石塚左玄の提唱

この連載のタイトルにある「食養」とは、 食物によって「病気を治す・健康を改善する」といった意味の語ですが、 いったい誰によっていつ頃から使われ始めたのでしょうか。

もともとフランスのルイ・パスツール (1822-1895) 以降の近代西洋医学の流れを追ってみると、免疫学の祖であるロシアのイリヤ・メチニコフ (1845-1916) が長寿のための乳酸発酵菌 (ヨーグルト)の飲用を勧めた以外、 「食物で病気を治す」 発想は希薄でした。 西洋ではむしろ、 医学とは別物としての 「栄養学」が発達していきました。

一方、古代ギリシャのヒポクラテスやイスラム医学、インドのアーユルベーダ、中国の古典医学などの伝統医学では、 空気・水・風土などと並んで「食事」が意識されていました。 日本でも、前号で紹介した貝原益軒や横井也有のような人たちを見るとわかるとおり、 中国の医学・本草学 (薬学)の影響を受けて、「食物」の大切さを認識し著述で説いていました。

このような素地があったためか、伝統医学・医術を踏まえた 「臨床栄養学」としての「食養」が、日本で独自に発達していったのです。 それが大きく花開いたのは明治期のことでした。

■「人類穀食動物論」とは?

その担い手が、明治時代の医師である石塚左玄 (1851-1909) でした。 彼こそが、 「食物で病気を治す」意味の食養という言葉を使い始め、さらにその概念を広く普及させるのに大きく貢献した人なのです。

福井藩の漢方医の家に生まれた石塚は、 東京大学南校で医師と薬剤師の資格を得て陸軍の軍医・薬剤監として活躍し、1896年に陸軍少将で退官。その年、大著 『化学的食養長寿論』を刊行し、食養概念 の体系化に寄与しました。また、1907年 には「食養会」を設立し、食養概念の実践的普及活動にも熱心に取り組みました。

以下では、 石塚の確立した食養学の中から、良く知られた概念を紹介してみましょう。

まずは 「人類穀食動物論」 です。人間の歯は、穀物を噛むための臼歯が20本、菜類を噛みきるための門歯は8本、そして肉を噛む犬歯は4本なので、 人間は主に穀物を食する動物であるという理論。 穀物の中でも石塚は精白していない玄米を推奨していますので、 「玄米魚菜食」 が理想的な食事ということができそうです。続いては、 「身土(しんど)不二(ふじ)」という考え方です。 もともと「因果応報」に近い意味の仏教用語でしたが、 転用して食養運動の中で使われるようになりました。

その土地の環境に適している食物を、それが産出する季節に食べることで、心身もまた環境に調和するという理論です。 いまなら「地産地消」が近い概念でしょうか。 次号でも、引き続き石塚の「食養概念」を紹介してみます。

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第4回

「食養」の歴史を辿るーーー石塚(いしづか)()(げん)から桜澤如一(さくらざわゆきかず)

4月号は連載をお休みしましたので、 この第4回は3月号からの続きとなります。その3月号では、 明治期の医師、石塚 左玄が提唱した「食養」概念のうち、人間は穀物を食べる動物である、とする 「人類穀食動物論」と、最適な時節に採れる地元産食物を食べるべきという「身生不二論」を紹介しました。

今回はそれ以外の石塚の食養論を取り上げてみます。

まずは「陰陽調和論」です。『大辞林』 (第3版) によりますと、「陰陽」とは「中国の易学でいう、宇宙の万物に働く、相反する性格のもの。天・男・日・昼・ 明などは 陽、地・女・月・夜・静・暗などは陰である」 ということです。

石塚はこの考え方を応用し、食物も「陰」と「陽」のバランスをとることが大切と説きました。具体的には、陽性のナトリウム (肉・卵・魚などの動物性食品)と陰性のカリウム (野菜・果物) のバランスのとれた食事を心がけようと提唱したのです。これなど、いまでも全く妥当な食事のあり方ではないでしょうか。

ほかに石塚の理論で欠かすことのできないのが「自然食論」です。「一物全体」という表現もしていますが、要するに食品は丸ごとすべて食べよう、とする主張です。野菜なら葉も茎も根も。魚なら頭も尾も身も骨も。丸ごと食べることによって、多種多様な栄養を摂取できるし、それが食のバランス (陰陽!) につながるのだ、と石塚は考えました。 これもまた、いまでも納得できる食事法ではありませんか。

■石塚を継ぐ桜澤の理論

石塚のこのような考え方の根底にあるのが、「食こそ心と身体をつくり育てる基本である」とする 「食事至上論」あるいは 「食本主義」という理論です。したがって心身の病気も食事に起因するとして、食事を中心に据えた療法に取り組みました。その代表的な例が玄米食です。

石塚は1907年に設立され、会長に就いた「食養会」を通じて玄米食の普及など、「食育活動」に熱心に取り組みました。こうした実践活動によって彼の理論は広がっていき、以後、 さまざまな人たちによる多様な食養論を生むことにつながりました。その代表例が桜澤如一 (1893- 1966) の理論です。

桜澤は京都生まれの貿易商でしたが、石塚の食養理論の実践によって健康を回復したことがキッカケとなり、 食養会の活動に参加。37年には会長に就任しました (2年後に脱退)。

一方、フランス語に堪能でボードレールの詩集の翻訳を出したり、 フランスにわたって東洋思想の著作を出版したり と、多岐にわたって活躍しましたが、40年代に入ると、 石塚の食養理論を基にした 著作を出すことにもっぱら注力し、『病気の治る食物』など、数多くの著作を出版しました。

そして戦後。彼はそれ以前にも増して様々な活動を内外で展開。やがて「マクロビオティック」という食養を通じた長寿法を確立し、内外に影響を与えていくのです。これについては次号で一。

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第5回

桜澤如一(さくらざわゆきかず)のマクロビオティックとは

前号では明治期の医師である石塚左玄の食養理論を受けついだ桜澤如一 (1893-1966) が、戦前に活躍した様子を紹介しました。彼は戦後、それ以前にも増して精力的に活動し、食養を通じたマクロビオティック (長寿法)を確立しました。今回はその概要を紹介してみます。

桜澤は戦後まもなく、正しい食養の普及をめざして「真生活協同組合」という団体を設立しました。これはのちに「日本CI協会」と名称変更し、現在も存続しています (本部は東京都目黒区に)。 そのホーム ページで桜澤が主導したマクロビデオティックの説明をしていますので、そこから概要を紹介してみます。

まずは食品の品質基準について。農産物は有機肥料を使い無農薬で栽培したものを使用。加工食品は有害な添加物や抽出剤、化学調味料等を含まないものを。食品の選択基準は、前号でも紹介した (地産 地消の) 「身土(しんど)不二(ふじ)」の原則を守る-

食品の摂取基準は次のとおり。動物性食品を避け穀菜食中心にする。野菜は根・茎・葉など全体を摂取する (前号で紹介した「一物全体」の摂り方)。 精製された 白米を避けて玄米を摂る。魚類は小魚が推奨される。糖分・塩分を制限。水分を十分に摂る――。

■水分の摂取を重要視!

これらが食品・食事に関する原則です。ちなみに最後の水分の摂取については、次のような説明文が付いていました。「高齢者等の場合、涸渇に対し鈍感になるので血中濃度が濃くなり、各種の梗塞を起こす怖れがあるので、常に十分な水分の補填に努める必要がある」。

ここでいう水分がアルカリ性の還元水であれば、胃腸症状の改善を期待できるので、なお健康維持に寄与するのではないでしょうか。

同じホームページには、食事面だけでなく、マクロビオティックに関連する「あるべき生活習慣」も掲げられています。これも食養のあり方を考える上で重要な要素なので紹介してみます。

食事は1口ごとに30回以上咀嚼する。食事の量は腹8分目程度に。間食は健常者には許されるが、 糖分に注意。煙草は禁止。酒類は健常者に限り、少量の飲用を。ストレスに注意し克服する。睡眠や休 息を十分にとる。 毎日適度な運動をする。 定期的な健康診断を受け、健康状態を チェックする。

以上が桜澤式というべきマクロビオティックの概要です。要約すると、玄米を主食とし、主に豆類、野菜、海草類などから構成された食事を、身土不二や一物全体といった考え方を基に摂取する、ということです。加えて、正しい生活習慣に則って日々を送る、との原則も大切であるとしています。

桜澤如一は戦前戦後を通じて、国内外に食養について大きな足跡を残しました。一方、桜澤式に学びながら独自の方法を開拓し、医師として実践活動にも取り組んだのが、わたしの師である日野厚 (1919~1989) だったのです。

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第6回

わが師日野(ひの)(あつし)医学博士の生涯と食養論――その①

わたしの師である日野厚医学博士は、1919年に京都市で生まれました。父親は同志社大学の宗教学の教授で、 家もキリスト教に帰依し洋風の生活を取り入れていたといいます。 ところが日野は生まれな がらの虚弱体質で、とくに中学生(旧制京 都一中)のころからは悪性で慢性の下痢に悩まされ続けました。

実はこのことが、 日野が「食養」 や 「断食」といった(当時の西洋医学の常識からみれば)“異端の療法”にめざめ、医者としてその研究と実践活動をライフワークにしていくことの端緒になったといえます。 わたしの食養論の原点を形成している「日野式食養法」を理解していただくためにも、ここで当時の状況に触れておきたいと思います。

日野は1989年に亡くなる前、テープレコーダーに自分の来し方を吹き込んでいました。それは後に「我が回想の記」(以下、回想記と略)として遺族の手によって冊子にまとめられました。

それによると、中学4年生時に下痢が猛烈に悪化し、「寝たきりになってしまった。以降、締めて四年半ぐらい休学する事になってしまった」 (回想記)というほどでした。 さらに「約三年間というものは、毎日 三度三度、もう普通の下痢止めでは効かなくなってしまった」(同)。慢性で、かつ悪性の過敏性腸症候群だったようです。こうして日野は、中学を長期病休することになったのでした。

■桜澤式で慢性下痢を克服

日野は療養中にいろいろな治療法を人に勧められましたが、中でも 「玄米食」 には得心し、その関連で (本連載の3回と4回で紹介した) 石塚左玄の食養論を実行するようになりました。 回想記によると、「自分で献立を作って三度三度カロリー計算してオーダーを出していた」というほど、自己流ながら「玄米魚菜食」を相当徹底して実践しました。西洋医学の治療法で回復しなかったことから、そういう療法により力が入ったのでしょう。

日野はその後、石塚左玄の食養理論を受けついだ桜澤如一の提唱する(本連載の4回と5回で説明した)食養論に傾倒します。 わざわざ東京まで出向き、石塚が初代会長を務め、一時期、桜澤も会長だった 「食養会」に通って会員がおこなう療法を学びました。「桜澤先生が講演に行く、座談会に行くというと、僕はことごとく付き歩いた」(回想記)というほど、熱心に取り組みました。

さらに日野は大阪にあった「断食道場」に入寮して断食も体験しています。 そこでは、まるで「禅で悟りを開いた時のような境地」を得たといいます。こうして次第に回復してきた日野は、ようやく中学に復学することができました。

やがて卒業時期を迎え、日野は医師をめざすことにしました。それまでの病気をめぐる彼の強烈な体験が、必然的にその道を選択させたといえるかもしれません。日野は1940年に九州高等医学専門学校 (現久留米大)に入学。44年に卒業すると 医師の道を歩みはじめました。

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第7回

わが師日野(ひの)(あつし)医学博士の生涯と食養論――その②

1944年に旧制九州高等医学専門学校(現久留米大)を戦争のため繰り上げ卒業すると、日野は疎開を兼ねて同年に設立されたばかりの旧制山梨県立医学専門学校(1947年に廃校)で医師としての研修をするようになりました。それも間もなく456月に徴兵されて千葉県内の基地に駐屯することに。 しかしわずか2カ月後の8 月に日本が敗戦し招集解除になると山梨へ戻り、県内の診療所勤務を経て、甲府市の山梨県立医学研究所で働くことになったのです。

日野の「我が回想の記」(以下、回想記と略)によりますと、彼は臨床医よりも医学研究を志していて県の関連部署へ働きかけた結果、研究所入りを果たしたといいます。

こうして日野は待望の研究生活を始めることができました。以降、「僕の性格としていい加減にはできないのだ。朝早くから夜中まで来る日も来る日も研究をつづけた」(回想記)のでした。

日野が最も注力したのは、風土病として知られている日本住血虫症の研究でした。これは日本住血虫が体内に侵入すると肝機能などが侵され、重篤化すれば死に至る場合もある恐ろしい病気で、しかも最大の“有病地” が甲府盆地でしたから、足元の風土病を克服せんと懸命に尽力したのでしょう。

■全体医学の確立をめざす

 研究生活を送っている日野に、東邦医科大学から声がかかりました。日本住血虫症の研究のために実施していた血液検査の緻密な方法が評価されたのです。実際、日野は東邦医大に移ると、血小板減少症に関する研究で成果を上げました。回想記で、 「血液学会で発表した報告は、かなりの反響を呼んだ。 僕が出したデータについて、国内からも国外からもだいぶ問い合わせが来た」というほどでした。

こうした努力の結果、日野は1956年に医学博士号を取得しましたが、10代のころと同様に虚弱で、腎臓や肝臓などの疾患に罹ってしまう有り様でした。そのため彼は「食生活」にひどく敏感になりました。

かつて過敏性腸症候群を治療するため、 (6月号で紹介した) マクロビオティックの創始者・桜澤如一に師事したことからもわかるように、その関心事は必然的に「自然食」といった方向にむかいました。

しかしそれは、桜澤式べったりではありませんでした。詳細は省きますが、要はその食養法が余りに厳格で、かえって健康を害するケースが目についたため、むしろ批判的になっていました。

日野は民間の食養法に利点があることは承知していましたが、一方、それがマイナスに働くこともあると認識しました。そこで、可能な限り実証を土台として、厳正に批判検討し、現代の栄養学と医学、さらに民間の食養法や療法などを総合しようと考えました。

その上で、健康のために真に役立つ新しい総合的な全体医学栄養学の確立に全力で取り組むことを、ライフワークとする決意をしたのです。

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第8回

わが師日野(ひの)(あつし)医学博士の生涯と食養論――その③

わたしが日野と運命的な出会いをしたのは、1959年のことでした。重い肺結核にかかったわたしが、 東邦医大付属病院に勤務する日野の診察を受けたことが発端です。以来、日野が亡くなるまで30年も医療の世界で共に歩むようになるとは、当時は想像さえしていませんでした。

入院したわたしは、日野の許可を得て、玄米の自炊を始めました。一口に玄米食と言っても、“流派”はいろいろです。わたしはいくつかの方法を試しましたが、これという療法は見つかりませんでした。この間、 日野はわたしの「自己流食養法」を見守っていました。頭から否定したり批判したりということはしない人でした。

日野自身も、大学病院で 「食の科学化」に向け、日夜、研究に励んでいました。そして日本で初めて大学病院で玄米の給食をする、という画期的な取り組みを始めたのでした。具体的には、主食を玄米とし、砂糖は使わず薄味で、タンパク質は小魚や白身魚、そして豆腐などの大豆食品から摂取し、野菜(とくに緑黄色野菜)を多く摂るという献立でした。

これはいまでもお勧めしたいほど、バランスの取れた良い食事内容でした。わたし自身もこうした食事療法のおかげで、肺結核を治すことができたのです。

こんな体験を経て、日野の食養に対する情熱や人柄に感銘を受けたわたしは、退院後まもなく、日野の研究の手伝いをすることになりました。これが、わたし自身もその後、長きにわたり「食養」をテーマとした研究と実践を続ける端緒になったわけです。

■「東と西の統合医学」を構想

 その後、 日野は東邦医大から別な場所に「舞台」を移し、1963年からは、 日野らの働きによって新設された小田原女子短大・栄養科学研究所で、臨床栄養学について実証的研究をつづけました。同じ年に (財)愛生会・厚生荘療養所にも栄養研の分室ができて、わたしもそこで働くようになりました。

さらに696月。 食養研究にとって画期的な動きがありました。日野が、河野臨床医学研究所付属・ 北品川総合病院の第3内科部長兼特殊栄養部長に就任したのです。 これにより日本で初めて総合病院で本格的な食養研究とその実践が始まったのでした。

当時、日野がライフワークとしていた研究は、「全体医学・栄養学」の確立でした。 このことについて、 日野は初めての一般向け著作『自然と生命の医学食と病の対決』 (光和堂/1965年初版) のプロローグ で、こう書いています。

「(民間の食事療法などを指して)これに科学性という脚光を浴びせ、出来る限り実証を土台として、その在り方を厳正に客観的に批判検討し価値評価をし、且つより全きものへ高めて行くと共に、現代栄養 学・現代医学・民間食事法・民間療法総てを統合して、真に人間の幸福達成に大きく役立つ新しい綜合医学~栄養学の展開」が緊急の課題である、と。

このような気宇壮大な構想のもと、日野は以後も熱心に実証的研究に励んでいくのでした。わたしもまた、研究員として日野に伴走しつづけたのです。

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第9回

本邦初「食養内科のユニークな試み」

わたしの恩師である日野厚医学博士は1969年から北品川総合病院の第3内科部長として、本格的な食養研究とその実践を開始しました。その後、さいたま市の岩槻病院を経て、7811月に東京都大田区の松井病院に本邦初の食養内科が開設されると、日野は食養内科部長に就任しました。ついに食養(栄養科学)と東西医学とを総合して診察・治療に当たる専門の場ができたのでした。わたしも日野のスタッフとして同じ職場で働くことになりました。

食養内科には老若男女、実にいろいろな症状の患者がやって来ました。まずは食養内科で食事療法を試みた症例(病名)をあげてみましょう。

胃炎・胃潰瘍・胃下垂、十二指腸潰瘍、便秘・下痢、肝炎 肝硬変、胆石・胆のう炎、腎炎・腎盂炎・腎不全・ネフローゼ、高血圧・動脈硬化症、心臓病、糖尿病、肥満症、痛風、アレルギー(喘息)、肺結核、貧血、自律神経失調症、神経痛、慢性関節リウマチ、アトピー性皮膚炎、ガンーー。

あらゆる「診療科」の患者がやって来るので、まるで「病気の見本市」のような状態でした。中でも、比較的多いと感じられたのが、腎炎、肝炎、糖尿病、そしてガンでした。

こう書くと、皆さんの中には「内科」なのに、なぜこれほど多くの診療科の患者がやって来るのか、不思議に思う人がいるかもしれません。

■末期患者の“駆け込み寺”

理由は比較的単純です。さまざまの症状の多くの患者が大学病院や専門病院をたらい回しにされ、重篤で末期的な状態でやって来ました。ガン患者がその典型でしたが、もはや病院で手を施すことがなくなり「あとは食事療法に頼るくらいか」という認識の医師が送り込む、もしく は患者自身がそう認識してやって来る、という状態でした。

もう一つの特徴は、漢方を始めとするさまざまな民間治療・施術に拘泥し、現代医療の診断・治療を受けぬまま手遅れになってやって来る患者が多かったことです。そういう患者に接すると、「早期にいまの医療を受けていれば助かったのに」と、わたしはひどく残念な思いに襲われました。

さらに病気の種類で言いますと、1980年代半ば以降、アトピー性皮膚炎の患者が目立って多くなってきたことが特徴的でした。

これなど、食生活の激変(欧風化)や食料生産の環境悪化などがもたらした結果ではないでしょうか。 高カロリー・高タンパク・高脂肪の肉類や糖分・塩分の過剰摂取などによって栄養バランスが崩れ、加えて、 食品添加物などの化学物質の摂取、農薬や化学肥料の大量使用等々による影響もあってのことと考えられるのです。

いずれにしろ適正な栄養摂取をおこなうための「食養」がいかに大切か、わたしは松井病院での日々の業務を通じて嫌というほど学びました。そこで次号より、同病院でのわたしの経験をお話しすることにより、「食養」の大切さを浮き彫りにしてみたいと思います。

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第10回

食養内科で実践した「東」と「西」の統合医療

松井病院食養内科の部長だった日野厚医学博士は8978日、不帰の人となりました。それまでの間、わたしは食養内科の課長として患者の食事療法をおこなっていました。 日野の死去後も食養内 科の顧問の立場で同様の活動を続けました。

当時の食事療法は、後に日野式といわれた原則に従っておこなわれました。それをまず示してみましょう。

①合成添加物のない食品を摂る。 ②残留性のある農薬を用いずに生産した食品を選ぶ。③合成洗剤を使わない。④穀物や砂糖などは精製度の高いものを用いない。⑤野菜はとくに緑黄色野菜を多く摂る。⑥海草を摂る。⑦地産地消に努める。⑧野菜は根も葉も捨てない。⑨魚は皮も骨も内臓も食べる。 ⑩アクの強い食品以外は、煮こぼし、茹でこぼしをしない。⑪塩分・糖分を控える。⑫合成調味料を控える。 ⑬過熱・過冷食品や強い香辛・刺激物を避ける。⑭清涼飲料水・缶詰・インスタント食品は控える。⑮過分な間食をしない。⑯よく咀嚼し腹八分を旨とする。

もちろんこれはあくまで原則です。食養内科では、この原則に従いながら、患者一人ひとりの症状に合わせた食事療法をおこないました。数多くの症例から、印象に残っている事例を紹介してみましょう。

■初診に最長5時間かける!

たとえば原因不明の慢性疾患で、自己免疫疾患の一つとされるベーチェット病の女性患者(当時59歳)の場合、 ある大学病院で薬物治療を続けていましたが、右手指の化膿、顔等の湿疹、そして口内 炎などがおさまらず、食養内科を受診しました。

この時には病院で出す食養基本食以外に青汁と人参汁を与え、カイロプラクティック施療も併用しました。

その結果、3週間で化膿がおさまり、1カ月後に口内炎が消失。湿疹もなくなって2カ月半で退院しました。

このように患者によっては、食養基本食以外にも、いろいろな食品や療法を用いることが食養内科の特徴でした。具体的には伝統医療である漢方・鍼灸・気功・ヨガを始め、カイロプラクティック、各種手技療法等を大胆に取り入れました。心理療法をおこなった例もあります。

これこそ「東洋医学」と「西洋医学」の総合という、日野が思い描いていた医療の実践にほかなりませんでした。

そのためには、個別患者に何がどうフィットするのかを、しっかり確認する必要があります。必然的に診断が長時間かかることになります。とくに時間をかけていたのが初診時の問診で、短くて3時間、 長ければ5時間もかけた例さえあります。大学病院などの総合病院でしばしば問題になる、 「3時間待って診察3分」とは、全くほど遠い診察状況でした。しかしわたしは、このような診察・診断こそ、あるべき医療ではないかと思い、いよいよ真剣に取り組んでいきました。